2013 年 03 月

2013/03/29 Fri.

phoem_02

みんながみてる。

みんなをみている。

同じようにみえているのか。

だれも分からない。

みたいようにみているのだ、きっと。

text : TAKAYAMA Nobuo
photo : TOMOOKA Takashi

2013/03/28 Thu.

phoem_01

なぜ、気がすまない?

ひとつでは自信がないもの。

すべてを覆いつくす?

地のはてまで。

強欲だな。

text : TAKAYAMA Nobuo
photo : TOMOOKA Takashi

『アップル 世界を変えた天才たちの20年』
ジム・カールトン著 山﨑理仁訳 早川書房

細切れに読んでいた上下本を、ジョブズの死を機に一気に読んだ。

この本は、アップルの創業から初代iMacの発表までを追ったドキュメントである。執筆・出版は1998年。私はそこから10年以上も先の未来を知った上で歴史を振り返ることになる。ずっとMacとともに過ごしてきた漢字Talk世代としては感慨深いものがある。

ジョブズがアップルを追われたあと、いかにアップルは迷走し何度も危機に陥ったか。ジョン・スカリー、ジャン・ルイ・ガゼー、マイケル・スピンドラー、ギル・アメリオ………。何人ものTOPがアップルを混迷の淵へと導いて行った。インテルに対抗するための新しいチップの開発、IBMとの合併交渉(!)、サン・マイクロシステムズとの合併交渉(!)、Mac互換機のライセンス供与、そして何よりもシステム7の後を担うモダンOSの開発、これら生き残り戦略の多くは頓挫し、アップルは本当に倒産寸前まで追い込まれた(新しいチップはPowerPCとなって市場に出て、一時、アップルを救う。互換機も三社ほどのメーカーからでたが、後にジョブズによってつぶされる)。

この時代、アップルに翻弄されながらもMacと付き合ってきたユーザーは、本当に文句ばかりいっていたと思う(苦笑)。Mac版を出す予定はありませんと一体いくつのソフトウェア会社にけんもほろろに言われたことか。帝国主義的窓系のユーザーには「へぇ、Mac使ってるんだ」と冷ややかに言われ続けた。そんな情けない状況のはけ口をアップルの経営陣にぶつけていた(もちろん、その声は届くはずもないのだけれど。今のようにメールなんてできなかったしね)。

そしてNEXTのOSを引っさげて、ジョブズが返り咲く。

「Think different」。

iMacの誕生だ。本書が追っているのはここまで。

未来を知らぬ著者はこう言っている。

「フル装備のPentiumマシンが1000ドルをはるかに下回る値段で買えるのに、はたしてどれだけ多くの人々が1299ドルのiMacを買うだろうか」

しかもフロッピーディスクドライブがiMacには搭載されていなかった。この時アップルは、ネットワーク経由で保存したりダウンロードできるため、フロッピーディスクドライブは陳腐化しつつあると説明したという。

これは、今の時点からみればなんという先見性だろうと思えるが、当時はまだまだそんな環境ではなかったと思う(結局サードパーティの周辺機器がその穴埋めをするわけだが)。

著者はこの時点でかなり懐疑的なコメントを残している。

「初代Macintoshの発表をどれだけ真似ようとも、この製品はMacとは違い業界を変えることを運命づけられた製品ではなかった。せいぜい、病んで疲弊した会社に新たな命を吹き込むだけだろう」

だが著者は最後にこうも述べている。

「どのような結末を迎えるにせよ、世界はアップルコンピュータに感謝しなければならない。彼らこそが、無鉄砲といえども、情報化時代の勇敢なパイオニアなのである。アップルはこの新しいエキサイティングな情報化時代の夜明けを告げる旗を誇らかに掲げ、われわれが今日慣れ親しんでいる多くの技術革新の道を切り開いた。そしてアップルの物語はアメリカ合衆国のビジネス史上屈指の風変わりで悲惨な展開を見せたにしろ、この会社はやはり、いかなる経営的失敗にも決して打ち消されることのない確固とした地位を歴史の中に築いたのである」

私たちは今、社会を大きく変えるだろう企業が、アップルとGoogleと、もしかするとfacebook(?)であることを知っている。ウィンテルは、ジョブズが過去に言っていたように、T型フォードの役割を果たしてきたことは確かだろう。しかし我々は悦楽を知ってしまったのだ。林檎を一齧りして。

ジョブズ亡き後に、

アップルが同じ過ちを犯さないことを願うのみである。

amazonより転載

        amazonより転載

こんなかっこいいタイトルの書籍を他に知らない。
ハワイアン、マウンテン・ミュージック、アイリッシュ、ブルース。
音楽のある風景とルーツをたどる地球紀行。

私が出版社に外部編集者として出入りしていた頃、
そこの文芸編集者だった友人に教えてもらった一冊だ。
記憶が定かではないが、彼が担当編集者だったかも知れない。

ある時、友人がこう誘ってきた。
「彼(この本の著者)のお気に入りのBARに行こう」
それが、自由が丘の「レイラ2」、後の「ヒューミドール」である。

そのBARは雑居ビルの四階にあって階段をトボトボと上がっていかなければたどり着かない。
重たい木の扉を開けると、細長い空間に一枚板のカウンターが伸びている。
確か桜だったように思う。

このカウンターの木は、乾燥が十分ではなかったらしく、
奥のストゥール二つ分あたりが反り返ってしまっている。
それがこのキリッとした空間の、密やかなアクセントになっていた。

友人に初めて連れられていった時何を飲んだかもう覚えていない。
ただ、この本のアイリッシュの頁で少しだけ文体が乱れることを
いろいろと話したように思う。

この良質の酒を飲ませるひっそりとしたBARの存在は、
次第に酒飲みたちの知るところとなり、
時に満席だったりした。

そんな時は、入ってすぐ、カウンターが右に折れ曲がっている
ストゥールのない部分でスタンディングで飲ませてもらった。

その頃は大抵バンブーのオン・ザ・ロック。
バーテンダーの小林氏が柳刃で立方体に切り出した大きな氷が一つ。
その隙間をとっておきのダークシェリーとベルモットが埋める。

そのスタンディングスペースの後ろにはワインセラーがあり、
きれいな花が生けられ、
上の方に小さな天窓があった。

ときどき窓越しに月が見えた。
自由が丘の月は狂っていたのか。

今はもうこのBARに足を運んで確かめることはできない。

そして著者ももう月を見上げることはない。

その数奇な死を悼みご冥福をお祈りする。
駒沢敏器氏、享年五十一歳。

とある札幌らーめんの店。我が家では「おっちゃんのらーめん屋」で通っている。愚息が三〜四歳の頃、よく食べに行っていたのだ。

おっちゃんは帰りにいつも
「アメ、あげてもいい?」
と必ず私たちに承諾をとってから愚息にペロペロキャンティをくれた。
うるさい親もいるからね。

その店に、六〜七年ぶりに行った。ほぼ満席。小学生の男の子と幼稚園かなくらいの妹を連れた若い夫婦がその中にいた。お父さんは大盛りを食べ、餃子をとって小瓶。お母さんは自分のらーめんから女の子に分けてあげて、お兄ちゃんは一人丼と格闘している。そんなどこにでもありそうな家族の風景。

私はそのお兄ちゃんの右隣に座り
「小瓶と味噌を麺硬でね」と頼む。
「はい」
と私の注文を受けて、おっちゃんは待たせているほかのお客さんのために餃子を焼いたり、麺を茹でたり、つまみをつくったり慌ただしく動いていた。久しぶりだから、まだ思い出してもらってないなと出された小瓶をグビグビ飲む。なにせ20キロ走ったあとだからね、小瓶じゃ本当は足りないくらい。でもきょうは事務所に出なきゃいけないからこのくらいでと。

さて、私の味噌らーめんをつくる順番がきた。おっちゃんが白味噌の加減を整えるのを見ているのはけっこう楽しい。硬めに茹でた(そんなでもなかったけどね、何せすべてを一人でやっているのでそんな厳密なことにはならないのよ、この店は。それでOKな店)麺を味噌のスープの中に入れてトッピング。

メンマ、葱、若布、卵(卵のスライサーで切ったもの半個見当)、卵、卵、ん?
「おまちどおさま。チャーシューいらなかったよね」とおっちゃん。
ははぁん、私のことは分かってたんだ。その証拠にいつもここを間違える。

(当時、私がいらないと言っていたのは卵。その分若布をくださいなんて言っていた。でも、いつからかおっちゃんは、チャーシュー嫌いだと私のことを記憶するようになった)

しかし私もそのことを訂正しなくてもいい歳になった(笑)。
いいよ、いいよ、覚えていてくれてありがとう。

私が食べているうちに、件の家族連れが愛想に立った。するとおっちゃんは、すかさず「僕とお姉ちゃんに」といってペロペロキャンティを差し出した。その時、おっちゃんはおじいちゃんの顔になっている。

さて、私もお勘定。ちょうどの額をカウンターにおくと、丼を洗っていたおっちゃんが(未だに手作業なんです、ここは)、
「Tくん、いまいくつよ」
と聞いてきた。
びっくりした。愚息の名前を覚えてくれていたとは。
少しだけ、おっちゃんと昔話をして店を出た。

卵三つのらーめんも悪くない、と思った。

毎年九月の半ばは、地元の祭だ。このあたりではいちばん大きな祭かもしれない。例年、知り合いのお宅が場所を提供し、そこに集ったりするのだが、子どもも大きくなり、集まる人たちも世代代わりして自然と足が遠のいていた。

ただ、祭の日は、先ずは自由が丘に繰り出すという習慣は相変わらずだ。ここ数年は、知人の家に向かう前のお父さんたちと出かけることも多かったが、たとえ一人だろうと、この時期は飲みに行っていたのだ。

もちろん、今年も出かけた。22㎞あまりの街中ジョグを終えて、ノルディックウォーキングの講習会を体験し、亀戸で餃子とビールを楽しんで帰宅。一風呂浴びてから、一人で歩いて自由が丘に向かった。昨日の蠢くエネルギーが残る祭の参道を横目に。

気持ちが急いたのか、自由が丘に早く着いてしまった。看板に灯りは点っておらず、暖簾もまだ出ていない。お店が開くのは五時からなのだが、それより十五分ほど早くのれんが掛かるのは常連なら誰でも知っていることだ。

しかしその十五分前にも、まだ十分時間があった。界隈をふらふらしながら、少し時間を稼いだが、う〜む、どうもまだ微妙な時間が残っている。仕方がないので、暖簾が出ていないかどうか見に行こうとその筋に戻ってみると、五人ほど並んでいるではないか。老舗のこの店に並んでいる人がいるなどというのは見たことのない光景だったので、驚いた。店内の壁際には椅子が並べてあって、待とうと思えばそこで待つこともできるのだが、暖簾が掛かる前に外に客が並ぶというのは初めて見た。

若者たちは、このオヤジたちは一体何に並んでいるんだという怪訝なまなざしを投げつけてくる。そんな視線に晒されること数分。反対側からやってきた常連が(この人はよく見る人だ)、暖簾が掛かる前の店の引き戸を開けながら、並んでいる私たちに向かって

「もう入れるよ。どうぞ」

と声をかけて入っていこうとしたとき、中扉を開けて女将さんが暖簾を持って出てきた。

一番最初に入った常連客は、常連たちの席、二つある大きなコの字型のカウンターの右のカウンターの、その右の付け根の端の席に腰掛ける。次の二人連れは、いつもこの店に来ているわけではないのだろう、左のコの字カウンターの左端へ向かう。お店の人とのコミュニケーションを望まない席だと言ってもいいだろう。二組めは、私が座りたい席に向かっていた。右コの字カウンターの常連席の向かい、左の付け根である。ここが一番好きなのだが、先に向かわれたのでは仕方ない。私は、右コの字カウンターの端から常連の分を六席を空けて、七席目に腰を下ろした。すると女将さんが、私の座りたかった席に腰を下ろした二人に

「ごめんなさいね、土曜日にはいつもこの席に来る人がいるんで空けてもらえないかしら」

う〜ん、この店でそういう台詞を聞いたのは初めてだった。

「いつも酔っ払って寝ちゃうから、そこがいいってお客さんなのよ」

ああ、その人なら、きっと必ず煮魚を頼むおじいちゃんだ。何度も私はその人の隣になったことがある。冷酒をけっこう飲む。で、煮魚は時間がかかるから、出てくるまでの間に、一度寝てしまう。そんなおじいちゃん。でも、私は、その人のために席を空けてくれと言われたことはなかったな。

「ビール」とまず頼む。普段は小瓶なのだけれど、きょうはそれなりに運動もしたので、(昼も餃子で飲んではいるが)たっぷり水分補給しようという魂胆だ。常連の中には「麒麟ね」と指定する人もいるが、ビールとだけ言えば、赤星が出てくる。素晴らしい。ずっと変わらない、小口の葱を散らした一口分の絹ごし豆腐がお通しで出てくる。

赤星を飲みながら、カウンターの上にあるきょうの料理の紙を手にとる。何にしよう。欄外に旬味到来「松茸土瓶蒸し」「松茸茶碗蒸し」とある。いいねぇ。しかし私のような庶民には手が出せない。悩んだ末に頼んだのは、苦瓜のサラダ、ほうれん草の白和え、そしてお新香。そうこうしている間にも、ひっきりなしに客がやってくる。開店時間の五時を目指してきた人たちは、絶対に入れると思っているはずだが、そうとも限らない。実際、二階も、三階も予約で満席。一階カウンター席に空きがないことを見て取ると、大概の客は上を指さすのだが、きょうの女将さんは謝るばかりだ。

私の右隣に若い穏やかな雰囲気の人がやってきた。女将さんは「先生、小瓶?」とすかさず聞いていたので、常連さんなんだろう。私も何度かお見かけしたような気がしないでもない。彼は「失礼します」と私に会釈して座った。つまみには〆さんまともう一品。ヱビスの小瓶があくと、

「花の井をぬる燗でお願いします」と丁寧に頼んだ。

途中、鞄から出したレジュメは英文。それを膝元において、静かに読みながら、ゆっくりと盃を傾けていた。

二席空いていた左隣はちょうど角の席である。そこに女性を連れた元気のいい老人がやってきた。女性はこの店が初めてらしく、「すごぉ〜い」を連発して興奮している。どうやら俳句仲間らしい。もちろん男が重鎮、女性は参加歴が浅いといったやりとり。生ビールを頼んで、つまみ二つほど。まぁ、どちらもどうでもいいようだった。とにかく男が話したくて仕方ないらしかった。家族のいない生い立ち(どこかの金持ちが妾に孕ませた子らしかった)故に、女性に対する愛情は、自己愛の裏返しなんだとかなんとか。この店で聞きたい話じゃない(少なくとも私は)。できれば、鳥升にしていただきたい。そんなんで話に夢中。途中、女将さんに氷をもらって「おれ、ぬるいの嫌いなんだよ」と生ビールのジョッキに氷を落とした。そこまではどうぞご自由にという話だが、黙って女性のグラスにも氷を入れたのには驚いた。「あ、ありがとうございます」と女性は言っていたが。

私は白いかの刺身をとって、白鷹をお燗で。先生は花の井の二本目を楽しんでいる。花の井ってどんなお酒ですか、と聞いてみようかなと思ったりしたが、静かに英文を読んでいる風情に、きっかけが掴めなかった。

さて、先生は二本で暇を告げる。私にも「お先に失礼します」と一声かけていただいた。酒場の学校の流儀がこの先生の中には自然に生きている。

次にその席には大柄の、ご近所って風情の男性が来た。椅子を引きながら、「生ね。それから秋刀魚」まぁ、せっかちを地でいくタイプだ。

喧噪の中でぼんやりと顔を上げると、左のコの字カウンターの上にご主人が柔和に微笑む絵が飾ってあった。この店はいろいろな才能が集まっていたりするので、常連客の誰かが描いたに違いない。今日はそういえばお店に出てこないなと思っていたのだ。ここ数年は、常連客が揃った頃合いを見計らうように、お店に出てくるというのが最近のご主人のスタイルだった。だが、きょうはその気配がない。

この店は椀ものがよい。いつも最後に季節の椀ものをもらうことにしている。ちょいとおまけを付けて頼む。

「こんにゃくのピリ辛煮と秋刀魚の団子汁ください」

「こんにゃくと団子汁ね」と女将さんが復唱したあと、

あの甲高い声で注文を調理場へ通す。

白鷹の燗は三本目くらいだろうか。その間にも、一年ぶりに来た常連さんとか、昨日も一昨日も来ていた常連さんとか、たくさんの人がやってくる。一階カウンターは二人まで。それがこの店のルール。今もその空きを待って腰掛けている人がいる。

椀が出てくる。一口啜っては、蓋を被せる。できるだけ冷めないように。白鷹を流し込む。今年はまだまだ暑いが、これからの季節、堪えられない組み合わせだ。

さて、お勘定をしてもらおう。女将さんが手元でサッと計算する。そして気になっていたことを聞いてみる。

「久しぶりにお邪魔したんですが、お父さんは?」

「あ、おとうさんはね、去年の十月に亡くなったの」

平静を装って聞く。

「ご病気で?」

「小脳の梗塞だったんですよ。それまで病気なんて一つもしたことなかったのにね」

「あら、そうでしたか。それはお寂しいですね」

「未だに信じられないの。もうすぐ一年だけどね」

そう言われて、私の無沙汰が明らかになる。

「残念ですね。70周年の冊子をいただいたりしたこと、よく覚えています」

「残念だけど、ほら、私たちにはお客さんがいるでしょ」

女将さんはそう言って自分に頷き、私の支払いを済ませに帳場に向かった。

寝てしまうおじいちゃんのための席。次からはそこには座れないなと思った。

女将さんやスタッフの人たちに挨拶をして小路に出る。背中越しにご主人の声が蘇る。

「どうも、いつもありがとうございます」

やわらかで奥行きのある声。

いつぞや私が田芹のあまりの旨さにお代わりをした日。お勘定を頼むと、ご主人が私に顔を近づけて、

「田芹、二つ召し上がった?」と聞いてきた。

「ええ、すごくおいしかったので」

「よかったぁ。伝票のつけ間違えかと思ってね。ドキッとしちゃうんですよ」

といってお互いに笑ったことがあった。

ネットの情報か何を見てきたおばさん二人組を

「そこの二人、いい加減にしなさいっ」と怒鳴りつけたこともあった。

「なによ五千円くらいの店で、生意気よね」

とその二人は息巻いていたが、周りが不愉快になるほど自分勝手で、店の雰囲気を壊す輩には躊躇わずにその態度を正していた。パブリックな場としての酒場ということが分からない人には厳しかったと言ってもいいのかも知れない。

「どうも、あいすみません」

入れなかった客へのご主人の言葉。

帰り際に

「どうも、いつもありがとうございます」

やわらかな笑顔でこう言ってもらって、酒徒たちはまた来ることを心に決めるのだ。

穏やかでよく通るあの声が今も聞こえる。

自由が丘に「金田」あり。

もし最後の一杯が叶うなら……。

このBARで大切にしていたことがある。その日の「One for the Road」(帰り道のための一杯=最後の一杯)を何にするかということだ。年月を経るに従って、私の好みも概ね落ち着いていき、穏やかな味わいのものや甘めの一杯を好むようになった。

マディラの長い余韻を楽しみながら、何も考えずにいる。ポルトの甘さに浸りながら、静かに扉を閉めるようにその日を終える。時に、デキャンタージュされたポルトがカウンターの上に出してあることがあり、そんな時は、

「三杯目にポルト。逆算してその手前の二杯を」などと頼んだこともある。

このBARで「One for the Road」を楽しむことはもう叶わない。2010年7月末で閉店してしまったからだ。最近の無沙汰が悔やまれてならない。

ただただ、時代は失われ、一端失われたものは記憶の中に留めるしかないということを思い知るのみである。(おわり)

第一話「かけがえのないBARとの邂逅」はこちら

第二話「マスターをやり込める女性の一言」はこちら

第三話「竹林の向こうの蠢く気配。」はこちら

第四話「反り返るカウンターに傾く美酒。」はこちら

第五話「ぴたりとはまるカクテルのちから。」はこちら

第六話「旨い酒は類を呼ぶ。」はこちら

旨い酒は類を呼ぶ。

その日は大学時代の同級生が上京し、ここに連れてきていた。彼は水割りか何かを頼んでいた。私たちはオールド水割り世代だから、それは彼の頑なさの表れなのかも知れなかった。私は相変わらずマスター任せ。

彼と二人で思い出話に花を咲かせていると、女性を三人連れた白髪痩身の男性が入ってきた。彼の第一声を聞いて驚いてしまった。内容にではなく、そのちょっと鼻にかかった声色にである。

彼は滅多に会わない私の叔父だった。世田谷に住んでいる彼がこのBARに来ても何の不思議もないのだが、それが同じ日、同じ時間となるとそう確率は高くならない。

「ご無沙汰しています」とストゥールを降りて彼に近づきながら挨拶をすると、

「誰だっけ?」

これには驚いた。彼もここで私に会うと思っていないから尚更だ。名を名乗ると、「老けたなぁ」と一言。

その日、叔父とは簡単な近況をお互いに報告し合って、ここで会ったことは他言しないこととしようと約束した。彼の連れの女性三人の意味がよく分からなかったからである。

後日。マスターから、叔父が定年退職したことを聞いた。親戚の動向をBARで知る。妙なものである。(つづく)

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第四話「反り返るカウンターに傾く美酒。」はこちら

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ぴたりとはまるカクテルのちから。

一つの店に通い詰めると、だんだんとそこでオーダーするものが毎回同じになってしまって、そのことにじぶんで飽きてしまう時期があると思う。そんな感覚に陥った私は、だんだんとじぶんから注文することをやめてしまい、その日の気分や、使って欲しいラリックのグラスだけを指定して酒が出てくるのを待ったりした。たとえば、こんな感じだ。

「クラッシュアイスで。でもジントニックじゃないぜってやつを」

「その二本足のグラスで、何か」

そんな私ののらりくらりとして宛のない挑戦状に応えるかたちでサーブしてくれたカクテルの中から、いくつかのものが私の新たな定番になっていった。

たとえば、薬草系のリキュールを使ったカクテル。一口含むと爽やかな香りが鼻孔を駆け上がる。

「ペルーノをソーダで割り、フレッシュライムを添えました」

知らない飲み物なのに、これを求めていたんだという感覚。ラリックのグラスに、満月の如く浮かぶスライスライム。この爽やかな一杯で悦に入っているとき。中年のカップルがやってきた。すでにけっこう飲んできたらしく、階段を上がってくるときから陽気な声が響いていた。

店にたどり着くと二人してマスターのヘアスタイルを見て大笑い。

これまでジェルでビシッと決めていたのに、きょうはさらさらのナチュラルヘアで眼鏡をかけていたからだ。二人の大騒ぎが終わると、マスターは何も訊かずにカクテルをつくりはじめる。女性の前だけに置かれたフルーツ系のカクテル。男性は酔いつぶれてすでにカウンターでうたた寝をしてしまっている。それを見て女性がしれっとした顔で「しょうがないわね」と呟いている。

きっとそのカクテルには何かしら無言のメッセージが込められていたと思う。(つづく)

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反り返るカウンターに傾く美酒。

このBARはうなぎの寝床のような構造をしているのだが、入ってすぐ、右手を振り返るとワインセラーがあり、その上に小さな小窓があった。入り口に向かってまっすぐ伸びてきたカウンターはこのあたりで曲がり、ストゥールは設えれられていなかった。混んでいるときなど、ここで立って飲みながら小窓を見上げた。月が見えることはなかったが、雨粒が小窓を濡らす様などに訳もなく考え入ったりした。

しかし一番好きだった席はカウンターの一番奥の席だ。この席のあたりのカウンターはストゥール側がグンと反り上がっていて、カウンターとしては失格だった。

「乾ききっていなかったんでしょうね。だんだんと反ってきてしまって。でも少し落ち着いてきました」

マスターは淡々と話していたが、とある時一緒に飲みに来た建築家はこの席に座るやいなやカウンターにさーっと両手を伸ばし、

「だめだよ、これは」と呟いたものだ。

それより少し前。私はマスターの薦めでオールドモンクなるインドのダークラムを知った。何か秘密を抱えていそうな深い色。見た目に違わず溢れるコクとまろやかな甘さ。その旨さに唸った。しかしなぜ、インドでこんなラムができるのだ。じぶんの浅薄な知識を棚に上げ、妙な感動の仕方をしたことを覚えている。

建築家と一緒の夜。オールドモンクを彼に教えた。セロニアス・モンクをどうしても思い出してしまうという一言を添えて。その杯を傾けて唸っていた彼は、ご返杯とばかりにシングル・モルトを私に薦めてくれた。

ラガブーリン。モルトウィスキーを代表する銘柄だという。一般的に酒屋で手に入る程度のモルトしか知らなかった私には新鮮だった。強烈な癖が飲み手を刺激してくる。草の匂い、土の薫り。さらっとドライな口当たり。建築家の彼は、きっとわざとオールドモンクと対極にあるような酒を私に教えたに違いない。世の中には旨い酒がまだまだたくさんあるのだと。

オールドモンクもラガブーリンも、カウンターの上で少しだけ傾いていた。(つづく)

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