その人は、気まぐれにやってくる常連だった。

たいていその日の最初の客で、こんばんはというのが憚られるような時間に現れて、小さな声で「こんにちは」といって店に入ってきた。

男性の常連客のように、カウンターの隅っこを好むということもなかった。ふらふらっと何も考えずにストゥールに腰をかけるという風で、ただ、続けて同じところには座らないということだけが彼女のルールなのかもしれなかった。

「いらっしゃい」といってメニューを出す。すると彼女は、実にていねいにメニューを読んだ。眺めるというよりは、きちんと読み込んでいるに違いと思わせるくらい、メニューから顔を上げなかった。そしていつもと何も変わらないメニューを確認すると、かなりの確率で同じものを頼んだ。

「ヴァイツェンをパイントでください」

ヴァイツェングラスにこの小麦のビールを注ぐのには集中力がいった。忙しいときなど、よく泡のバランスが上手くとれなかったりした。きょうの最初の一杯。ココはそのサービングで自分の調子を量っていたので、ことのほか、慎重に注いだ。

彼女はそんなことはお構いなしに、実に無造作にヴァイツェンを飲んだ。グラスを両手で持って飲むのが印象的だった。その手には、指輪もネイルアートもなかった。その無頓着な指は洗いざらしの白いTシャツをなぜだか思い出させた。

ココは開店時間に間に合わなかった雑用を淡々とこなし、彼女は静かにただただヴァイツェンを飲んだ。ビールマニアが口にするような感想など一言も漏らすことはなかった。

彼女は1パイント以上飲むことはなかったし、他の客が思いのほか早くやってくると、ペースを上げて飲み干しさっと帰って行った。

彼女とすれ違うようにやってきた客から「あれ、音楽は?」と言われて、あわててiTunesを起動させる。カウント・ベイシーのピアノにホーンセクションが重なっていき、「ジャンピング・アット・ザ・ウッドサイド」が空間を埋めていく。彼女がいた余韻が音符に押し出されるように霧散していった。それは、いつもの仕事が始まる合図でもあった。

ある日、メニューを彼女が読み終えた頃を見計らってヴァイツェングラスに手を伸ばしかけたとき、「ピルスナー・ウルケルをください」と言われたことがあった。ほんの少しだけ、彼女の口元がゆるんだ気がした。

「ボトルになりますけど」
「はい。お願いします」

ボトルからグラスに上手く注ぐのもまた一苦労だった。グラスを回しながら、ガスを抜くようにビールを注ぎ込み、泡の落ち着きを待ってなんどか注ぎ加える。そんなとき、彼女の視線を感じることはまずなかった。彼女はたいがい両肘をついて口の前で軽く指を絡ませて、ぼんやりとしていた。海に身を任せて浮いているようなイメージ。

それからしばらく彼女はピルスナー・ウルケルを来るたびに飲んでいった。ココはもう彼女がオーダーする前に先走るのはやめにした。

それは毎日毎日しとしとと雨が降り続く古風な天候にうんざりしていたときだった。いつものように彼女がやってきた。肩のあたりが少し濡れていて、髪の毛が湿気でまとまらない、そんな様子。下唇を少し噛んだまま、いつものようにメニューを読み始めた。でも、それはいつもと違った。まるでプロ棋士が盤面を見つめて長考するかように、彼女はなかなかビールの銘柄を口にしなかった。

「ごめんなさい。また今度にします」

結局、彼女はそう言って店を出て行った。彼女が座っていたストゥールには、わずかでも空気の対流があれば吹き飛んでしまいそうなほど儚い彼女の痕跡があるようだった。

しばらくすると店のドアが開いた。やってきたのは、いつもすぐに音楽を要求するあの客だった。

「あれ?」
「あ、音楽、すぐかけますね」
「いや、ファーストレディいたの?」
「え?」
「ほら、俺が来るとたいていすぐ返っちゃうあの子。いつも来るときは一番客でしょ」
「あ、そうですね」
「あんまりそっちの方を見つめてたからさ」
「もうきょうは帰りましたよ、彼女」
「へぇ、そりゃまたずいぶん早いね」
「何にしますか?」
「ウェストコーストIPAかな」
「はい」
「でもさ、なんで彼女がいるときはいつも音楽かけてないわけ?」

ココはもう彼の話を聞いていなかった。タップに向かうとき、彼女がいたあたりをちらっと見ると、そこには彼女の雨に濡れた手が残したのかも知れない湿った染みがあった。ココはビールを注ぐ前に音楽を鳴らすことにした。iTunesは、この雨の日に「エイプリル・イン・パリ」を選んで鳴らし始めた。ココは催促されるまで、ビールを注ぐことを忘れていた。