かけがえのないBARとの邂逅

東急東横線と大井町線の交叉する東京・自由が丘。今から17年前。私はこの街でそのBARに出合った。

私の友人は詩を学ぶためにアメリカに留学し、帰国すると出版社の文芸編集者になっていた。彼と久しぶりに会い話しているうちに、彼が私の好きな作家の担当編集者だということが分かった。そして彼はその場でこう言った。

「じゃあ、先生の好きなBARにこれから行こう」

私たちは、有楽町線で池袋に出て、山手線で渋谷に向かい、東横線に乗り込んだ。自由が丘が近づくにつれ、どことなく興奮が高まっていくようだった。

自由が丘のロータリー側の改札は、今も昔も待ち合わせの人でごった返している。自動改札に切符が吸い込まれ、数歩前に進むと、その人たちの多さにちょっと気圧される。それでもなんとか光デパートの方向へ歩みを進め、すぐに現れる東横線の高架を潜り、オヤジたちに愛される一角に入っていく。この界隈で有名な居酒屋などを横目に見ながら、この飲み屋街を抜けてしまう。さて、友人の言う店はどこにあるのだろうと思っていると、彼は右に折れ進んでいく。

「ここ」といって彼は雑居ビルの手前で立ち止まった。

そのビルには1フロアに一軒の店が入っているらしく、目指す店は最上階にあった。

「エレベーターがないんだよね」と言って友人は苦笑した。

やれやれ。私たちは年齢相応の重たい体をリフトアップすべく息をあげて最上階を目指した。

重たいウッドの扉を手前に引くと、桜の一枚板のカウンターとマスターの「いらっしゃませ」というメローな一言が私たちを迎えてくれた。

その時、というのはつまり17年前のその日、私は何を飲んだのか覚えていない。ここを贔屓にしているというその作家が「月」にまつわる物語を書いた直後だったので、「月」の話をしただろうことは辛うじて記憶にあるのだが。私は最初からこのBARが気に入ってしまった。マスターの所作が綺麗だった。特に布巾の使い方に痺れた。何ともいえない手際。ただリズミカルであることだけが目につくのではなく、そこに品のようなものが感じられるのだ。

その後、私はこのBARに通い続けることになる。(つづく)

第二話「マスターをやり込める女性の一言」はこちら