マスターをやり込める女性の一言。
私は開店時間を狙っていくことが多く、そうするとマスターはいつもカウンターの中で、キューブの氷づくりに励んでいた。その様がまた好きだった。業者が運んできた直方体の氷を柳刃でコン、コンと叩き適当な大きさのパーツに割り出す。その氷の六面を今度は柳刃で納得がいくまで削っていくのである。ジュアリと氷を削る音がする。マスターが次の面を右サイドにくるように動かす。慎重に刃を当ててジュアリ。この氷はラリックのロック・グラスにちょうど一つ入る大きさに整えられる。
私はこのキューブの氷の美しさにいつも感心してしまう。本来オン・ザ・ロックスで飲むカクテルではないのだが、当時、いつもピンク・ジンをオン・ザ・ロックスで飲んでいたのはこの氷ゆえだ。四角い氷にアンゴスチュラ・ビターズの醸し出す淡いピンクが、カウンターの上の絞り込まれたライティングに映えた。
その頃、私は一人の女性とよく一緒になった。彼女の名前も素性も知らない。話したことすらない。だが、忘れられない。なぜならこのBARで唯一、あるいはBARというものの客として唯一といってもいいかもしれない、値切る客だったからだ。
「今日のモヒートはライムが強すぎてソーダが足りないわ。だから少しまけてもらうね」
そんな台詞を初めてカウンターで聞いたときは驚いた。彼女が去った後、マスターに聞いた。
「すごいね。あんな人がいるんだ」
「昔から私のカクテルを飲んでいる方なんですよ。逆らえません(苦笑)」
「へぇ。いつも?」
「いつも指摘されちゃいます」
「あのさ、今日のピンク・ジン、、、」
彼はグラスを拭きながらこちらを見もせずに言う。
「その手には乗りませんよ」
「ばれたか(笑)」(つづく)
前回の記事「かけがえのないBARとの邂逅」はこちら
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