2013 年 03 月

竹林の向こうの蠢く気配。

ちょっと深めに酒を飲んでから、このビルの階段を上ってくると、今晩は少し軽めのものにしようと思う。そんなときにいつも注文していたのが、バンブーだ。これもあのキュービック・アイスで傾ける。ここのバンブーは、ダークシェリーを使っていて酸味とコクのバランスが何とも言えなかった。見た目はいっぱしのスピリッツなのだが、アルコール度数はすでに体内のアルコール貯蔵庫があふれ出しそうになっている身には優しい。あるいはまた、私はスターターとしてもバンブーをよく飲んだ。

この頃になると、私もそれなりにこのBARでくつろげるようになってきていて、一人でもカウンターに居座る時間が長くなっていた。そんなある時。先客にカップル一組という時があった。水商売の女性と金をもった中年男性。そんな雰囲気の彼らはカウンターの一番奥に陣取っており、私は彼らから距離を取りたくて入り口に一番近い席に腰掛けた。

カップルの前にはいかにもといった感じのロングカクテル。私はバンブーで、アミューズのフルーツや自家製練りチーズなどをちびちびやりながらぼうっとしていた。カップルの方も特段話すでもなく、静かな時間だけが流れていた。

やがて女性が奥の急な階段を上りはじめる。開店当初は二階のほんとうに小さなスペースにもテーブルとストゥールが置いてあって飲めるようになっていたが、今はそれもなくあるのは化粧室のみだ。彼女が階上に姿を消すと、今度は男性が追いかけるように階段を上がっていった。

二人はそれから三十分ほど戻ってはこなかった。(つづく)

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第二話「マスターをやり込める女性の一言」はこちら

マスターをやり込める女性の一言。

私は開店時間を狙っていくことが多く、そうするとマスターはいつもカウンターの中で、キューブの氷づくりに励んでいた。その様がまた好きだった。業者が運んできた直方体の氷を柳刃でコン、コンと叩き適当な大きさのパーツに割り出す。その氷の六面を今度は柳刃で納得がいくまで削っていくのである。ジュアリと氷を削る音がする。マスターが次の面を右サイドにくるように動かす。慎重に刃を当ててジュアリ。この氷はラリックのロック・グラスにちょうど一つ入る大きさに整えられる。

私はこのキューブの氷の美しさにいつも感心してしまう。本来オン・ザ・ロックスで飲むカクテルではないのだが、当時、いつもピンク・ジンをオン・ザ・ロックスで飲んでいたのはこの氷ゆえだ。四角い氷にアンゴスチュラ・ビターズの醸し出す淡いピンクが、カウンターの上の絞り込まれたライティングに映えた。

その頃、私は一人の女性とよく一緒になった。彼女の名前も素性も知らない。話したことすらない。だが、忘れられない。なぜならこのBARで唯一、あるいはBARというものの客として唯一といってもいいかもしれない、値切る客だったからだ。

「今日のモヒートはライムが強すぎてソーダが足りないわ。だから少しまけてもらうね」

そんな台詞を初めてカウンターで聞いたときは驚いた。彼女が去った後、マスターに聞いた。

「すごいね。あんな人がいるんだ」

「昔から私のカクテルを飲んでいる方なんですよ。逆らえません(苦笑)」

「へぇ。いつも?」

「いつも指摘されちゃいます」

「あのさ、今日のピンク・ジン、、、」

彼はグラスを拭きながらこちらを見もせずに言う。

「その手には乗りませんよ」

「ばれたか(笑)」(つづく)

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かけがえのないBARとの邂逅

東急東横線と大井町線の交叉する東京・自由が丘。今から17年前。私はこの街でそのBARに出合った。

私の友人は詩を学ぶためにアメリカに留学し、帰国すると出版社の文芸編集者になっていた。彼と久しぶりに会い話しているうちに、彼が私の好きな作家の担当編集者だということが分かった。そして彼はその場でこう言った。

「じゃあ、先生の好きなBARにこれから行こう」

私たちは、有楽町線で池袋に出て、山手線で渋谷に向かい、東横線に乗り込んだ。自由が丘が近づくにつれ、どことなく興奮が高まっていくようだった。

自由が丘のロータリー側の改札は、今も昔も待ち合わせの人でごった返している。自動改札に切符が吸い込まれ、数歩前に進むと、その人たちの多さにちょっと気圧される。それでもなんとか光デパートの方向へ歩みを進め、すぐに現れる東横線の高架を潜り、オヤジたちに愛される一角に入っていく。この界隈で有名な居酒屋などを横目に見ながら、この飲み屋街を抜けてしまう。さて、友人の言う店はどこにあるのだろうと思っていると、彼は右に折れ進んでいく。

「ここ」といって彼は雑居ビルの手前で立ち止まった。

そのビルには1フロアに一軒の店が入っているらしく、目指す店は最上階にあった。

「エレベーターがないんだよね」と言って友人は苦笑した。

やれやれ。私たちは年齢相応の重たい体をリフトアップすべく息をあげて最上階を目指した。

重たいウッドの扉を手前に引くと、桜の一枚板のカウンターとマスターの「いらっしゃませ」というメローな一言が私たちを迎えてくれた。

その時、というのはつまり17年前のその日、私は何を飲んだのか覚えていない。ここを贔屓にしているというその作家が「月」にまつわる物語を書いた直後だったので、「月」の話をしただろうことは辛うじて記憶にあるのだが。私は最初からこのBARが気に入ってしまった。マスターの所作が綺麗だった。特に布巾の使い方に痺れた。何ともいえない手際。ただリズミカルであることだけが目につくのではなく、そこに品のようなものが感じられるのだ。

その後、私はこのBARに通い続けることになる。(つづく)

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